平城京・平安京と長安

今日は春節ですね。
なにも勉強してないので、がんばらないと・・・。

卒論のテーマを日中交流史に変えました。
歴史のほうが中国の寮においてある資料も多いので、
今から探すという手間が省けます。

日本は中国文化の影響を多大に受けてはいますが、中国文化の影響しか受けていないわけではありません。むしろ現在の日本文化にとって西洋文化の影響を忘れるわけにはいきません。
そして、近代以前の日本もむやみやたらと中国文化を受容してきたのではありません。そこには「選択」が働いていましたし、当然「改変」もしています。


日本の歴史と社会 五味文彦・杉森哲也編、放送大学教育振興会、2009年
北村優季「平城京の都市計画」

以下、平城京がなぜあのように四角くなったかという話です。
都市には、長安のように計画的につくった都市と、自然発生的にでてきた形もととのっていない都市があります。

「中国文化の伝播ということであれば、日本よりも、朝鮮半島の国々の方が、このような都市の形式は伝わりやすかったはずである。」「しかし、これらの国ではいずれも、長安のような都市は存在していない」49ページ

朝鮮半島の都市は長安や平城京のように四角くはありません。自然の地形にしたがった形で町ができています。

「こうした事例を考えても、平城京が成立した理由を文化の伝播だけで説明するのは、やはり正確ではないといわざるを得ない。文化が伝わるには、それを受け入れる側の事情があることは、いつの時代でも変わりない。平城京が造営されたのはおそらく、それを必要とする日本側の事情が存在したはずである。そしてそのカギとなるのが中華思想であった」49ページ

日本版中華思想によって平城京はあえて長安城の形式を採用しているわけです。

 前近代の王権は、いずからを宇宙の中心とし、王都(帝都)を価値と道徳の厳選と見なした。正統性の根拠が神ないし天の超越性・普遍性にあったために、帝国には国境という観念は存在せず、王都からの距離に応じて文化の高低が存在するだけであった。つまり、王都を主舞台にくりひろげられた帝国期の王朝儀礼の機能は、宇宙の秩序と地上の秩序の対応を説く観念論を、劇的な形式で視覚化・具象化し、被支配者の心の中に正統性を植えつけ、価値の中心性を創作することにあったといえる。(『長安の都市計画』妹尾達彦、講談社、2001年、158ページ)


ついでに
上掲妹尾氏の著書にも

「中国の文化が、中国の外部の影響をこれほど受けたことは、かつてなかったことである」(185ページ)

「唐代の文化は、中国の社会が、中国外部からの影響を、かつてない規模と深さで受ける過程のなかで形成されたものである。」(185ページ)

と、唐文化の国際性が書かれていますが(まあ、これは妹尾氏だけのものではなく常識ですが)、中国人にはこの辺ももう少し考えてほしいです。どうも「唐→日本」という図式しか見えてない人がかなりいるのではないかと。