『中国文学入門』吉川幸次郎

『中国文学入門』吉川幸次郎著、講談社学術文庫、1976年

<中国文学の特徴>

小説の文学の発生が遅いこと(12ページ)
一ばんの中心となるものとして意識されたのは、詩(13)
中国では…叙事詩の伝統も全くないわけではありませんけれども、わりあいに乏しい。そのため小説の発生が遅れた(13)
詩は叙事詩であるよりも抒情詩として発展した(13)



<中国の知識人>

教養ある人間、完全な人間は…詩に対しての教養をもつべきである、少なくとも関心をもつべきであるという方向を、偉人孔子がさし示した(21)

<知識人に必要なもの>政治への参与、哲学への参与、文学制作への参与…三つのうちのどの一つを欠いても、知識でない。(85)

執拗な、政治への意思、そこにこそ杜甫の名声の根源がある。日本人、ヨーロッパ人は往往にして杜甫よりも李白を好むのに、中国では常にその逆であるのは、そこにこそもとづく。(159)

李白と杜甫が出た八世紀を最高潮として、それ以後、中国の詩はだんだん下り坂(49)
そうして、文学全体の軸が、詩よりもむしろ散文の方へと傾く(49)
散文の文学は、唐の次の宋の時代、十一、十二世紀のころには、大へん大きな勢力となる(60)
韓愈の出現を契機として、文学の重点が抒情詩から散文へと移ったということは、いいかえれば文学の興味が、言葉のおもしろさを求める興味から、事柄のおもしろさを求める興味へと、移ったことであります(61)

<日本文学との比較>

<明の小説は、日本の小説にも大きな影響を与えた。例:上田秋成『雨月物語』、滝沢馬琴>、日本の小説のほうがより理想的であるのに反し、中国の小説のほうがより現実的な方向にある(69)

この国<中国>の古い文学の根底にあった一つの精神、人は単に自己を完成するだけで人間であるのではなく、人人に善意を働きかけてこそはじめて完全な人間であるという精神、それは現在の小説の文学にも有力に生きていると感ぜられます。日本では、あまりにも書かれすぎるといわれる私小説が、中国では比較的少なく、小説が常に政治的な意図をおびつつ書かれているのは、この古来の精神が、今もなお連綿として生きていることを示すもの(80-81)

<部分的には日本文学にも共通>、日本文学は…虚構の文学、小説の文学に対する才能を、より早い時期から示していおりますが、いっぽう和歌は、中国の抒情詩と同じく、虚構の文学ではございません(121)

隠遁の文学が、西行、兼好のような形では、成立しない。隠遁は、政治に対するはじめからの無関心によって生まれるのではない。政治への逆説、反抗としてうまれる(160)

日本の文学も神に対する関心は「古事記」を例外としては乏しそうであり、詩は人間の日常、英雄豪傑でない凡人の日常の心理なり生活を歌うことを、短歌、俳句として主張している。かく人間の日常、ないしは日常の人間への興味が濃厚なのは、やはり人間を希望ある存在としてみる楽観的肯定的人間観が、根底にあるのでないかと思いますが、それについては皆様の方でお考えいただきたく存じます。(143)

中国の最近の政治が、みずからの政治形態、ないしは文明の形態こそ、世界最上のものであると叫ぶ傾向にあるのも、過去と無縁でないであろう。叫びは、外国人を、日本人を含めて、容易に説得し切らないであろう(99)
しかし、文学についていうならば、この文学ほど地上を見つめてきた文学、神への関心を抑制して、人間のみを見つめて来た文学は、他の地域に比類がないであろう。シェークスピアを中国は生まなかった。しかし司馬遷と杜甫とを、西洋はまだ生んでいないように見受ける。(99-100)


<中国文学の四時期>

先秦:前文学史的な時期、大部分は政治と倫理のための言語

前2世紀〜後8世紀(唐の中頃):抒情詩の時期、もしくは美文の時期

8世紀後半〜清崩壊:人間の事実そのものへと文学の関心がおもむき、したがって詩よりも散文の時期である。また事実への興味が強烈な事実を求め、虚構の文学を発生させた時期

「文学革命」にはじまる現代:


<人間の生き方についての中国の考え方の根本>

人間の救済は人間自身によってのみ可能…人間の救済は神によってなされるのではなく、人間自身によってなされるという考え…神話が、少なくとも現存する文献の範囲では、あまり残っていません。(122)
<神がいない代わりの聖人>「聖人」の概念は、少し皮肉に申しますならば、人間自身の中に神を設定したことになります(123)