『【改訂版】日中交流二千年』(藤家禮之助著)読了

『【改訂版】日中交流二千年』藤家禮之助、東海大学出版会、1988年
藤家禮次郎は、東海大学名誉教授、2010年死去。中国六朝史、中国社会経済史

この本は、中国語にも翻訳されていて、遣唐使関係の論文を読んでいると参考文献によくあがっています。(PDF化され違法アップロードされているので、無料で読めるんです)


まず、きになったことは・・・。
「東中国海」という表現は、やはり中国に対する遠慮なんでしょうかね?
私は、「国」なんていう字が入る地名はすきじゃないですけどね。
「日本国海」とかありえないでしょう・・・。

そして、やはりひとりで2000年の歴史を書くのは大変だということ。
それぞれの時代に専門家がいるわけで、ひとりで書くと内容が浅くなりがちです。
1988年の本ですから、陳腐化している部分もあります。

気になった部分を以下に引用します。


「なぜ南朝一辺倒だったのか」(64-68頁)

南朝は、晋王朝の統を継ぐものであり、それはさらに魏王朝、漢王朝にも通じる、中国を代表する唯一の正統王朝だとする判断だったのではあるまいか。(67頁)

二千年にわたる日中交流史の白眉はやはり遣唐使であろう。
派遣された正規の遣唐使は、前後十二回に及ぶ。(天智天皇四年派遣のものを正規の遣唐使と認めれば十三回)(93頁)

その他のものをすべて加算すれば16回とも書いています(96頁)

篙然はわが国に関するかなり正確で具体的な知識を始めて中国人に伝えた功績者として記憶されるべきであろう(134頁)

平和ボケですね。自国の地理を詳しく外国におしえたなら、それは売国奴ですよ。
衛星が発達した現在でも正確な地図を市販しないという国もあるんです。
邪馬台国の場所についても、邪馬台国側が最短ルートで案内したと学者は考えて邪馬台国の位置を推定しがちです。魏をそれほど信じていたのならともかく、本拠地に外国使節をつれていくのに防衛上何ら中の欺瞞工作をした可能性があると考える必要があるんじゃないでしょうか。

モンゴルと付き合わなかったことについて

やはり蒙古が“えびす”だったからであろう。しかも、そのえびすは、親近感のある漢民族の正統王朝である南宋と戦争状態にあり、これを侵食しつつある国である。(154頁)

親近感って本当なんでしょうかね?

勘合船は一世紀半ほどの間に、前後十七回(171頁)

明朝の遺臣の乞師は、他にも十数回(190頁)

明王朝の使節に対して、遜ることのなかったとされる懐良親王のことばに
吾が国は扶桑の東に処ると雖も、未だ甞て中国を慕わざることあらず。唯々蒙古は我と等しく夷なるのみ、乃ち我を臣妾とせんと欲す。
とあるが(『明史』日本伝)、こういう感情こそ、わが国人の代表的なものであったことであろう。
日中二千年の交流史に見られる、わが国の外交姿勢の一つの特色である。(195頁)

そりゃ『明史』は、明の歴史ですから、そう書きますよ。これは日本側の資料から引用しないと何の説得力もない部分じゃないでしょうか。

それまで極端なインフェリオリティ・コンプレックスを抱かされ続けてきた中国人(207頁)

これも本当でしょうか。実際に劣等感をいだいていた人はいるでしょう。
しかし、それほど江戸時代までの一般の日本人にとって、中国というのはそこまで具体的な国家像を描けるようなものだったのでしょうかね?
日本は、今でも実際の外国がどうであれ、その国を理想化し、そこを目標としてやっていく、という文化をもつように私は思います(目標がなくなった現在は、北欧あたりを目標にして福祉国家福祉国家とやかましいですよね。でも実際の北欧が本当に幸せかどうか…)。
明治以降、大陸にわたる日本人が増えて、実際の中国と中国人を見る機会があったことが実は中国人蔑視の傾向を生み出した主要な原因ではないかとわたしはおもっています。