室町人/貨幣の輸入/選択的受容

『室町人の精神』(日本の歴史12)桜井英治、講談社、2001年

中世の日本が何ゆえ銅銭の自鋳をおこなわなかったのかという問題は、日本史における大きな難問のひとつであった。(249頁)

ちなみに同時期の周辺諸国の状況をみると、朝鮮(高麗・李氏朝鮮)やヴェトナム、琉球など、中国の近隣にあってその影響を強くうけていた国々はいずれも銅銭を自鋳しており、しかもこれらの国々の多くが古代の日本と同様、律令体制を採用しているのである。これにたいし、中国から遠く離れたジャワではもっぱら中国銭とそれを模倣した私鋳銭が使用され、中世日本とよく似た貨幣状況を示している。この点に注目するならば、日本は古代から中世にかけて中国隣国型から辺境型へと国家の体質を大きく方向変換させたといえるのである。(249頁)

そもそも中国隣国型国家が採用した律令体制とは、対外戦争の脅威を契機として採用された戦時体制であり、人員・物資の大量移動を前提とするきわめて非能率的な、金のかかる体制であった。そして貨幣を自鋳するか否かという問題もじつはこの財政構造と密接にかかわっていたのである。(249頁)

「貨幣の額面価値>素材価値」なので、各国政府は、貨幣発行収入の獲得を目的として貨幣をつくることがおおかったようです。
(例:平城京造営→和同開珎)

後醍醐天皇以外の中世の為政者が貨幣の発行を思い立たなかったのは、結局のところ大内裏造営計画のような金のかかる事業を企図した者が後醍醐以外にいなかったため(250頁)

外国の物を用いることについて日本の中世国家は恐ろしく無神経であり、外国から入手できるもの(銅銭だけでなく、磁器などもそうである)はけっして自分でつくろうとはしなかったのである。日本においてこの必要が生じるのは、中国からの銅銭供給が途絶する十六世紀後半以降であり、さらにそれが実行に移されるのは江戸幕府による寛永通宝の発行まで待たねばならなかった。(250頁)

これらの唐物こそ、室町時代のあの蕩尽的な酒宴を彩った座敷飾りの基本的な要素だったのである。(253頁)

と唐物の隆盛をあげたうえで

けれども、室町人たちはかならずしも盲目的な中国文化の追随者だったわけではなく、この点は室町文化の性格を考えるばあいきわめて重要である。たとえば彼らが愛してやまなかった南宋末の画家牧谿は中国ではさほど高い評価を得ていたわけではなかった。柔らかでみずみずしい牧谿の画面が温和な気候に育まれた日本人の感性にかなったのである。ここに「牧谿の発見」といわれる日本人固有の美意識の発現を認めることができるのだが、この美意識が次なる文化のモードを生み出してゆく原動力でもあった。(253頁)

そして「唐物から和物」(255-257頁)という節でその「次なる文化」を説明しています。