『遣唐使船:東アジアのなかで』東野治之、朝日選書、1999年

古代の対外交流が盛大にみえるのは、こうした仏教界の多彩さによるところが大きいだろう。しかし僧侶には、伝道の熱意・使命感があった。(189ページ)

そうなんですよね。僧侶は出家者、中国人/日本人というより仏教者です。
鑑真の話なんかは、確かに日中の友好の象徴にされるべき感動的なものかもしれませんが、共産主義・無神論の中国に言われるとなんか複雑な気持ちです。
例えば、現在日本の僧侶などがインドに仏教の布教にいっていますが、
そういうのをインドのヒンズー教徒に「日本はインドに仏教をもどそうとしてあげている」とか恩をうっても「はあ?」っていわれるでしょうし、
日本のキリスト教徒が、同じようなことをいえば更に滑稽です。


ちなみに、うちの学生なんかだと鑑真が日本に仏教を伝えたと思っている人が数人はいます・・・。

遣唐使の旅は、一種の買物ツアーという性格を色濃く備えていた。(71ページ)

近隣諸国と比べ、人の交流の低調さははっきりしている。日本の唐文化への接触は、どうしても「もの」中心という特色を免れなかった。これでは中国文化の受け入れ方に、近隣の国ぐにと差が出てくるのは当然である。唐風一色の観がある遣唐使の時代も、新羅に比べれば、まだまだといわなければなるまい。(191ページ)

そして、選択的受容、少数の外国経験者が文化の動向を左右する力をもった、と特色をのべています。